2012年11月16日

呉善花

「確かに日本社会には、知識のある者ほど知識のない者の下に立つべきだという倫理観が流れているように思える。そうした倫理の源泉がどこにあるのかは私にはよくわからないが、明らかに韓国や中国にはないものだ。私なりに感じられる日本の希望のひとつはそこにある。庶民主義の日本、大衆的な愚民社会と酷評するむきもあるが、私は大多数の庶民を主人公に持ち上げることによって運営されている日本社会を愛するし、日本庶民はけっして愚民ではなく、また愚民化することもないと信じられる」

「経歴」

呉善花(1956年・韓国生まれ・評論家)

「参考書籍」

日本が嫌いな日本人へ・呉善花(著)




posted by 日本人 at 05:12| 戦後日本社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月13日

呉善花

「日本人の場合は、古くから非血縁共同体で村落を営み、そこでの情緒的な関係を育んできた長い歴史をもっている。この伝統からすれば、会社などの社会集団には、とくに契約的な意識や制度的な意識なしに、スッと入っていくことができる。ひとたび一個の会社に入ったとなれば、自然に集団への帰属意識が生まれ、会社という集団の発展のために協調して仕事をしようとする」

「経歴」

呉善花(1956年・韓国生まれ・評論家)

「参考書籍」

日本が嫌いな日本人へ・呉善花(著)




posted by 日本人 at 05:07| 人間関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

呉善花

「韓国人もまた集団的な協調関係が苦手な民族である。会社を頻繁にかわることでも彼らとよく似ている。韓国人にとっても華人にとっても、集団とは第一に血縁集団(宗教)であり、この血縁集団の維持・発展のためには、おおいに協調の力を発揮する。中国や韓国の農村は、歴史的にこうした血縁集団の内部で人々の情緒的な関係を育んできた。 この伝統からすれば、血縁の外での集団関係は、あくまで契約関係、制度上の関係なのであって、本当の意味での人と人との協調性を期待すべき関係ではない」

「経歴」

呉善花(1956年・韓国生まれ・評論家)

「参考書籍」

日本が嫌いな日本人へ・呉善花(著)





posted by 日本人 at 04:58| 戦後コリア社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月10日

呉善花

「老婆は、小さな一輪の花に手を差しのべ(略)話をしているのである。まるで子どもに話しかけているようだったが、あたりには私以外に誰もいなかった。花は、気づかずにうっかり踏みつぶしてしまったとしても仕方のないような、およそ人目をひくことのない小さな存在だった。 韓国人ならば、墓の前で死者に語りかけることはあっても、まず花に話かけるようなことはしない。しかも、ごく日常的な場面で日常会話そのままに話かけるなど、私にとっては夢の中でしかあり得ないことだった。不思議に思って知り合いの日本人にこの話をしてみると、誰もが「そういう感じはよくわかる」というのである。(略)考えられることは、日本語を環境とする日本文化では、古い時代に自然を人(神)のように見なした意識のあり方が、習俗のレベルで延々と保存され続けたのではないか、ということである」

「経歴」

呉善花(1956年・韓国生まれ・評論家)

「参考書籍」

日本が嫌いな日本人へ・呉善花(著)





posted by 日本人 at 10:29| 自然・動物・虫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

呉善花

「自然の音を直接聴く体験では、自然が発する音は無意味な音にすぎないが、そこに諸個人の擬人化の情緒が加担することによって、自然の音があたかも意味ある言葉であるかのようなイメージをもつことができる。人間と自然の音とはそんな関係にあるのだと当然のごとく思ってきたが、日本人についてはそうではないという。それを知ったときは大きなショックだった。 角田忠信氏の研究によれば、日本人は自然の音や母音を言語脳(左脳)優位の状態で聴いており、欧米人などはそれを非言語脳(右脳)優位の状態で聴いていることが、実験的に確認されている。(略)日本人は川の流れの音、虫の音、風の音など自然の音を、直接「ささやき」として、つまり言語と同じように受け入れて聴くという体験をしているのである」

「経歴」

呉善花(1956年・韓国生まれ・評論家)

「参考書籍」

日本が嫌いな日本人へ・呉善花(著)

「関連書籍」

日本人の脳―脳の働きと東西の文化・角田忠信(著)




posted by 日本人 at 09:38| 日本人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月05日

呉善花

「かつて山野に生きた人々は、平地へ下りて生活するようになると、山野を神々や祖先の住まう聖域として崇拝した。それ以来、人々は平地に山野の自然環境(聖地)を人工的に再生し内部化することに、執拗にこだわり続けてきた。そのこだわりが日本の庭の伝統を形づくってきたのだと思う。 もちろん、韓国人にもこだわりはあるし、中国人にもこだわりはあるに違いない。しかし、日本人がこだわるのは「山野の自然にまみれていたころの自分」であり、韓国人がこだわるのは「ようやく山野の自然から離れたころの自分」なのだ。 たぶん中国では、歴史的な高地人と平地人の対立から、山野の自然と平地とは厳然と区別されるべき対立関係を形づくるものであったし、韓国もまたその影響を強く受けて山野の自然を思った。しかし日本では、高地と平地の対立はきわめて穏やかなものとしてあったから、山野の自然からの分離感覚をはっきりと感じ取ってこなかった。そのあたりに、同じ東アジアの国でありながら、日本の庭園が韓国や中国とは異なる、独自の展開をとげた理由があるのではないだろうか」

「経歴」

呉善花(1956年・韓国生まれ・評論家)

「参考書籍」

日本が嫌いな日本人へ・呉善花(著)

「関連書籍」

共生の思想―未来を生きぬくライフスタイル・黒川 紀章(著)


日本文化私観・ブルーノ・タウト(著)





posted by 日本人 at 06:08| 日本人と特定アジア人(比較) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

呉善花

「本格的な茶室を内側から初めて体験しながら、仕組みの一つひとつの説明に耳をこらす。「窓の数は人間の窓の数と同じです」とA教授。目二つ、耳二つ、鼻二つ、口ひとつ、心ひとつ・・・・・。「なるほどそうか」と、内部への旅の見立てを思い、それぞれの窓に目をやる。と、案内の女性が「太陽光線の加減や雲の状態で、外の庭から障子に映りかかる業の色が変化します」という。内と外の淡い連絡に人の心が静かに動く−そんな体験への配慮があるのだろうか。(略)いくら描いても描ききれない。 しばらくのあいだ、静かに座り続けた。 これらは、「生の文化」の極地なのかもしれない。文化の中に「自然」を含み込みながら、あたかも「自然」の中に文化が含まれているような感じにさせられてしまう。そんな風を生み出すまでにするには、「素材の自然なあり方の質」を壊すことなく、どう手を加え、どう生かすかについて、途方もない工夫が凝らされているはずだ。そして、その途方もなさが人の心であることが驚異だ」

「経歴」

呉善花(1956年・韓国生まれ・評論家)

「参考書籍」

日本が嫌いな日本人へ・呉善花(著)




posted by 日本人 at 05:27| 文化・芸術・美意識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

呉善花

「日本では(略)未開社会に由来する文化が高度な洗練を受け、中心部の文化として発達し続けたのである。そうして生み出されたのが一連の「生の文化」であり、文化の高度化をそのような道筋でやってのけた国は日本しかない」

「経歴」

呉善花(1956年・韓国生まれ・評論家)

「参考書籍」

日本が嫌いな日本人へ・呉善花(著)




posted by 日本人 at 04:44| 文化・芸術・美意識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

呉善花

「日本人が「自然」というとき、そこには人が含まれる。生物的な人はもちろんのこと、文化行為を営む人が含まれている。逆にいえば、文化の中に「自然」が含まれている。(略)日本特有の文化志向には、素材の自然なあり方を壊すような人工化を嫌い、その「あり方の質」をどう保存し、どう生かすかという意思が貫きとおっている」

「経歴」

呉善花(1956年・韓国生まれ・評論家)

「参考書籍」

日本が嫌いな日本人へ・呉善花(著)




posted by 日本人 at 04:34| 文化・芸術・美意識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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