2006年05月03日

シュリーマン

「左側のお堂には仏像の傍らに、優雅な魅力に富んだ江戸の「おいらん」の肖像画がかけられている。肖像画は綿布や紙に描かれ、どれも額縁に収められている。日本でもっとも大きくて有名な寺の本堂に「おいらん」の肖像画が飾られている事実ほど、われわれヨーロッパ人に日本人の暮らしぶりを伝えるものはないだろう。

他国では、人々は娼婦を憐れみ容認してはいるが、その身分は卑しく恥ずかしいものとされている。だから私も、今の今まで、日本人が「おいらん」を尊い職業と考えていようとは、夢にも思わなかった。ところが、日本人は、他の国々では卑しく恥ずかしいものと考えている彼女らを、崇めさえしているのだ。そのありさまを目のあたりにして-それは私には前代未聞の途方もない逆説のように思われた-長い間、娼婦を神格化した絵の前に呆然と立ちすくんだ」


「経歴」

ハインリッヒ・シュリーマン(1822年生まれ・ドイツ)

「参考書籍」

シュリーマン旅行記清国・日本・ハインリッヒ・シュリーマン(著)

「関連書籍」

完本 梅干と日本刀―日本人の知恵と独創の歴史・樋口 清之(著)

「このように、「ウチの店」は、一つの擬制家族だったから、その中の店員の面倒は「ウチ」が完全にみるのである。 吉原の遊郭においてさえそうであった。遊女が病気になれば店主は終身、最後まで世話をする。
(略)江戸の遊女は、今日ではすべて管理された女として、女性哀史の別称のように言われている。しかし、これは間違ってはいないにしても、事実をすべて公平に扱った見方ではないように思われるので、少し触れてみたい。

最高の地位にある遊女を上方では「太夫」といい。江戸では「花魁」という。吉原には二千名の娼婦がいたが、この中で花魁になれる者は、多いときでも六、七人、少ない場合には二人というときもあった。

花魁になれる資格は、一切の教養を持っていることである。 文字が上手で、和歌もうまい。碁、将棋ができて、小唄、端歌、三味線、太鼓などの諸芸が一通りできなければならない。 つまり、当時の女性の教養の第一人者だということが条件で、そのうえに、健康で、しかも美人であるという条件が重なるから、どうしても選ばれる人数が少なくなるわけである。
(略)
こうした花魁が江戸の文化を支えていたといえなくもないのである。なぜかというと、江戸の流行はほとんど、「何々太夫好み」といったかたちで、櫛、簪、笄、帯、着物の柄にいたるまで、役者とか太夫が生んでいったのである。 言うならば、彼女たちは、その時代の最高の貴婦人である。しかも、公開された貴婦人だった。普通の女性は、家の奥に入り、「奥様」になっている。花魁は表に出ているほうの貴婦人で、ひじょうに尊敬もされていた。 だからこそ、二十七歳で年季が明けると、良縁にめぐまれて第二の人生へと誇りを持って入っていけたわけである」(樋口清之)
posted by 日本人 at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 女性 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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